二兎を追うものは一兎をも得ず

諺百科では、こうかいてある。

《読み方》
にとおうものはいっとをもえず

《意味》
同時に二つのものをしようとすると、どちらも成功せずだめになってしまうこと

《使い方》
二兎追うものは一兎をも得ずというが、彼は店を二つともつぶしたそうだ

僕はこの二つのものを同時に、とういう定義が難しくてこの言葉がぴったり
にこの状況だと思った事がなかなかない。

人は、幾つもの事を同時になさないと生きていけない。
息をし、水を飲み、食事をし、性行為をして子孫を残す。
そのために、水を確保し、命を守り、食料を奪い合い、自分の伴侶を探し、
原始的な時代でもきりがないほどたくさん有る。

ましてや現代でははるかに沢山の要因を選択していかなければならない。

例えばこういう事例が解りやすい、ある歌手がパリのオペラ座で初日を迎えた。彼女にとって最初で最後かも知れない主役での初日。長年の苦労が報われるかも知れないその日だ。
その時、母親が危篤状態に陥った報が入る。母も彼女の苦労は知っている。
そして彼女は舞台で歌い終え、大喝采を浴びたあと母の死を知る。
よく聞く話。

人は何かを成し遂げたとき何かを犠牲にしてきたとよく呟く。
それは恋愛だったり、お金の誘惑だったり、家族の幸せだったりする。
そして、この言葉、二兎を追うものは一兎をも得ず。
人は沢山の物を捨てている。二つのもののなかの一つなんてことはない。
と僕は思う。だが、僕も一つ決めたことがあった。
お金ではなく、名誉。
お金ではなく、いい作品。
そうやって積み上げてきて今の自分がある。
たまたま、お金が入ってきた事もないではないし、
もともと食べるに困るほどの家庭でもなかったという事もあるだろう。
だが、僕のその生き方は不幸な結果を招く事もある。
今の時代には向いていないのだろう。

両立という言葉がある、文武両道、主婦と家庭の両立。
それを成し遂げたものは賞賛される。

経済とアートの両立もこっち言葉の部類に属するとは思う。

僕はたまたま撮影に行っていたその地が大事な掛け替えのない人から
遠く離れていて、危篤と知ったならば、撮影してから駆けつける可能性が
ないわけではないと思う。しかし日本にいたならば僕は駆けつけると思う。
愛する人が死んでいくのをかつて看取ることが出来なかった若い頃のあの思いは出来るならばもうしたくない。
しかし、看取れなかった人の遺言に近い言葉にずっと縛られて
ここまで写真を撮ってきたという事実も嘘ではない。
だが、それは二兎を追ったなどということとは関係がない。

そして両親は、年老いた親に対する思いは二兎を追うものは一兎をも得ず、
の二兎に数えるべきものにいれるものではないと思う。

親を見捨てたから一つに没頭したとか言うってこと?
だからなに?どっちの作品がいいかだろう。
例えば子供を見捨てたから、良い作家?どちらもいるだろう。
家族を顧みなかったから良い作家?関係ないね。
100人の女を不幸にしてきた、だともっとスキャンダラスだというのか?

そんな考え方に聞こえる。

例えば、親が進路に反対している。120%反対している。
だけどどうしても反対されてる道に進みたい。
どっちにもいい顔をして、中途半端になってしまう。
これは不幸だ。まさに、二兎を追うものは一兎をも得ず、かもしれない。

だけど、その親を説得する。どんなに難しくても説得して好きな道をすすむ。
これは二兎を追うとは違うことだと思う。

 

 

 

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